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「今日はぜんちゃんと川へ行ってめだかを見てきたの。原っぱには蒲公英も咲いてて、もうすっかり春ね」
 お嬢さんが今日もあいつの話をして、にこにこ笑っている。
 朝は、「ぜんちゃんと山野さんちへ行くの」とか「ぜんちゃんのお店を見に行くの」とか「ぜんちゃんに話を聞いてもらうの」と大体あいつとの予定話をして、夜は「ぜんちゃんったら、またドジをやって、さっちゃんに怒られてた」とか「ぜんちゃんは、簪をたくさん持ってるみたい」とか「今日はぜんちゃんに助けてもらった」とかその日あったことを聞く。お嬢さんの話題は大体あいつ……月見里善之助のことだ。幼馴染とは言え、どうしてお嬢さんは、あいつのところにほぼ毎日行って、あいつの話をするんだろう。あんな頼りないやつのどこが良いのだ。わからない。
 でも、本当はわかっている。あいつの良いところを。お嬢さんがいつもあいつに会いに行ったり、話をしている以上にあいつは、善之助殿はお嬢さんのことを想っている。その証拠に体が弱いくせに寒い時は自分の羽織をお嬢さんに掛けたり、お嬢さんに一番似合う色の簪を見つけるために隣町に行ったり、お嬢さんが帰るときは必ず家まで送る。そんなの貞吉さんに任せればいいのに、だ。何より、あいつのお嬢さんを見つめる目は、優しすぎる。あれはただの友達や家族とかへ向ける目ではない――。
 わかっているが、わからないふりをしている。
「お嬢さんは、善之助殿のことをどう思われているんですか」
「え?」
 何気ないつものお嬢さんとのお茶の時間に不意に口から零れ出た言葉。
 (しまった)
「え、いや、その、いつもお嬢さんが善之助殿の話をされるので、気になったんです。きゅ、急に言われても困りますよね!」
 まずいまずい、こんなこと言ったら変に思われる。そんな焦りでしどろもどろになる。どうか何気ない会話の一つだと思ってほしい。自分の気持ちなど悟られないでほしい。
 背中に汗が伝い、祈るような気持ちでお嬢さんの顔色を伺う。
「ふふふ、いいの。そう言われてみれば、確かに私、ぜんちゃんのことばかり話してるわね。うーん、ぜんちゃんは……」
 お嬢さんは全く気付いた素振りもなく、笑ってくれた。そして、少し考えて、
「ぜんちゃんは、物心がついたときから一緒にいるし、なんだろう、いつも一緒にいるのが自然というのかしら。いなかったら、何か足りない……いないと困る人だと思う」
 そう答えるお嬢さんの笑顔は普段、俺に笑いかけるような笑顔じゃなくて、それよりも優しくて、眩しく見えた。この方は間違いなく幸せになるだろう。――まだ、この方がその気持ちに名前がつくまでは俺がお嬢さんの幸せを守る。

 

 ある日の夜、お嬢さんが休まれたころ、旦那様に呼ばれた。
「旦那様、一葉でございます」
「入って参れ」
 失礼します、と襖を開け、部屋に入る。旦那様は一人で将棋を打ちながら、「お前も一局どうだ?」とこちらを見た。
「いえ、私はまだまだ弱いもので、旦那様のお相手にはなれません。お嬢さんとされては?」
「ははは、春は私が教えたからな。そうだな、春にお前はいつも負けていると聞いている」
「お嬢さんがですか……?」
 毎回お嬢さんと将棋をやると必ずと言っていいほど、負けてしまう。それがまさか旦那様の耳にまで届いているとは……。
 驚きつつ、情けない思いでいると、「なんだ、いつも負けておるのか」と笑い声がした。慌てて旦那様のほうをみると、にやりと笑っている。
「……」
 騙された、と、親子そろって騙すところが似ているな、とがっくりする。以前、お嬢さんにも騙されたことを思い出し、ため息をつく。
「まぁ、そう落ち込むな。こんな遊びに負けたからと言って、お前の評価が下がるわけではあるまい」
「……いえ、負け続きなのでいつかお嬢さんに勝てるように努力します」
 会話している間も旦那様は、パチン、パチン、と将棋を打って居られる。
「あの、旦那様。それで御用とは一体どのような……」
「……すまん、ちょいと待ってくれ」
 呼び出しの内容を訊こうとすると、旦那様は片手の平をこちらに向けて言われた。丁度良いところなのだろう。旦那様が話し始めるまで、じっと旦那様の将棋を見守る。
 打つ手が止まったと思うと、うーん、と唸り、ゆっくり駒を動かし、パチン、と音を立てる。そして、パチン、パチンと連続で音が響いた後にまた、うーん、と唸った。こぶしを作った両手を膝の上に乗せて、睨み付けるように将棋盤を見て、うーん、と唸る姿はおお嬢さんと同じだ。いや、お嬢さんが同じなのか。旦那様とお嬢さんの姿が重なる。そんなことを考えていると、旦那様が手を止めて、こちらを向いて姿勢を正した。
「まだ春には言っていないのだが、近々に春を大村のところの息子との見合いをさせる」
「見合い、ですか」
 なんでまた、と言いそうになる。大村、と言ったか。聞き間違えではないだろうか。だって――
 困惑しつつも、なんとか相槌を打つ。旦那様は難しい顔をしている。
「どうやら、その大村の息子が春のことが気になるようでな。大村の旦那が数日前に見合いをするようにと申し入れて来たんだ」
「してほしい、ではなく、するように?」
「向こうは、うちとは比べ物にならないくらい大きい家でな、そんな大きい家の息子が町娘に惚れて結婚を申し入れたというのは嫌なんだろうさ。断ろうにも向こうが上だ。難しいだろうな」
「ということは、見合いだけではなく、その大村殿の嫁になるということですか」
「ああ、そういうこった」
 そんな。それではあまりにもお嬢さんが可哀想すぎる。だが、身分の前ではどんなに抗っても逆らうことはできない。
 無意識に膝の上に作ったこぶしをきつく握りしめ、歯を食いしばっていた。
「……お見合いの日取りは決まっているんですか」
「ああ、一月後に行うそうだ。それまでには春にも伝えるが、見合いの準備をお前に任せる」
「わかりました。それでは、そのように段取りを組ませていただきます」
 旦那様に深々と頭を下げ、部屋を後にした。


 考えてもみなかった。まさかお嬢さんが全く知らない男の元へと嫁ぐことになるとは……。小さな家で生まれ、育った者のほとんどは近所の家の者と結ばれることが多い。特に幼馴染というものは生まれたときから結婚が決まっているようなものだ。だから、お嬢さんはあいつの元へと嫁ぐのだと思っていた。たとえ二人の間に割り込もうとする輩がいても、あの二人の間には強く結ばれたものがあって、誰にも邪魔はできないと思っていた。だから、お嬢さんがあいつの元へ嫁ぐことになったときは、悔しいから一発ぶん殴っておこうと思っていた。「俺の大事なお嬢さんを取りやがって。幸せにしないと許さないからな」って言ってやろうと思っていた。なのに――。
 旦那様の部屋を後にして、いつもお嬢さんと縁側で眺める庭にいた。春の夜風は少し寒く感じた。真っ暗だが、月明りで庭の花がうっすら浮かんで見える。隣の家の庭に植えてある桜の木はもう少ししたら、満開になるだろう。
 桜。咲けば美しく、散れば儚い。桜で一喜一憂。それはどこか恋に似ている。咲くまで待ち遠しく、咲けばうれしく、ずっと続けばいいが、散れば終わり。……ああ、そうか。
「……なんで……なんでお前はもっと丈夫な男に生まれなかったんだよ……っ!」
 大声で叫びたい衝動を抑えながらも、目の前にいない人物に向けて言う。どうしようもない気持ちがあふれ、地団太を踏む。
 悔しい。
 悔しい。
 悔しい。
 いつの間にか二人のことを願っていたことが。
 お嬢さんを幸せにするのが自分じゃないことが。
 どうにもできないことが。
「馬鹿野郎……」
 ただ項垂れ、歯を食いしばった。
 地面に、ポツリと一粒の滴が落ちた。

 


 

晴れのち雨   by一葉

​著 なみな
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