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「春、お前に縁談が来た」
 そう言ったお父様は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。どうしてそんなお顔をされるのだろう。
「まぁ。私、お嫁に行くのですね」
 疑問はあるものの、最初の感想だけ述べてみる。
 嫁に行く。嫁に行くなら、白無垢を着ることになる。それは女子みんなの憧れ。とうとう私にそんな日が来るとは。
「善之助になんて言おうかしら」
 お父様の顔を窺うと、やっぱり浮かない表情をしている。それどころか、「善之助」と言った瞬間、さらに表情が曇った気がした。ここはめでたいことなのだから、喜ぶところではないだろうか。善之助のことが気に入らないということはないはず……。
「それでな、お前のその、縁談の相手なんだが……」
 お父様は言いづらそうにして、一度口をつぐんだ。そして、一つため息をついて口を開く。
「大村の息子の清十郎という人だ」
 え? と言おうとして、声が出ない。大村清十郎とは誰だろうか。
「大店の息子で、お前には申し分ない相手だ。それどころか、勿体ないくらいの相手だ。なにせ、うちと向こうとは差がありすぎる」
 私が何を言うまでもなく、お父様は淡々と話す。どういう……
「……どういうこと、ですか」
 声を振り絞り、やっとのことで出た言葉。消えてしまいそうな声はちゃんとお父様の耳に届き、「その清十郎という男がお前のことが気になるそうだ」と重苦しい様子で答えが返ってくる。
「春、よく聞きなさい。一月後に清十郎殿と見合いをすることになっている。だが、見合いは見合いでも、結婚が決まっている見合いだ」
「そんな……」
「身分は向こうが上だ。お前なら……わかるな?」
「……」
 わかる。身分がすべて。自分より身分が上の人に逆らうことはできない。お父様は、私のことを思って、最初から辛いお顔をされていたのだろう。
 だが、知らない相手が結婚相手になるとは。お父様に縁談の話をされたとき、この辺りの人と結婚するのだと思っていた。でも違う。全く知らない、聞いたことがない相手だ。確かに大村という名前は聞いたことはあるが、それは知ったうちに入らない。知らない相手が結婚相手だと思うと不安や恐怖が浮かんだ。なにより、この辺で聞く名前ではないということは遠くの人で、私はここを離れなくてはいけない。
 ポン、と肩を叩かれ、いつの間にか下がっていた頭を上げるとお父様が困った顔をしていた。
「春。知らない相手が結婚相手だというのは、さぞかし不安に思うだろう。私とて、お前が嫁に行くのは寂しくて仕方がない」
「お父様……」
「だがな、たとえ誰かの嫁になったとしても、お前は私の娘であることは変わらない。困ったときはいつでも頼りなさい。お前の幸せを願っているよ」
「お父様っ!」
 困り顔で微笑むお父様に縋り付き、しばらく泣きじゃくった。今すぐにお嫁に行くわけじゃないのに寂しくなった。きっと、お父様の寂しい気持ちがうつってしまったのだ。

 

 自室に戻り、襖の前で座り込んだ。
 いつかは誰かのお嫁さんに行く。それは物心ついたころには分かっていたし、憧れていた。七つの頃には近所の菊姉さんがお嫁に行った。菊姉さんは真っ白な白無垢を着て、きれいにお化粧をして、とてもとても美しかった。それを見て以来、お嫁さんは憧れになり、いつかお嫁に行くことが楽しみだった。けど――
「知らない人のところ・・・・・・」
 お父様の話を思い出し、再び不安が押し寄せる。
 (どうしよう)
 どうしたら良いのか、分からない。どうすることも出来ないけど、何かに縋り付きたくなるのはどうしようもなかった。
「ぜんちゃん・・・・・・」
 ぜんちゃんのところへ行こう。行って、ぜんちゃんに話を聞いて貰おう。
 何かあれば、いつも善之助に助けられた。嬉しいときや楽しいときはもちろん、悲しいときや不安なとき、お父様に怒られたときも善之助の元へ行った。
「・・・・・・あれ・・・・・・?」
 じゃあ、お嫁に行ったら・・・・・・?
 大村清十郎という人のお嫁に行ったら、ここを離れることになる。そうすると今までのように善之助に会いに行くことは出来ない。
 目の前が真っ暗になった。
「そんな・・・・・・」
 幼い頃からずっと一緒だった。善之助と一緒にいるといつも楽しかった。会いに行くのが習慣で、会いに行くのが私の生きている中で大切なことの一つだった。どんなときも一緒で、善之助がいないと私は何も出来ない。でも、これからもずっと一緒だから大丈夫――そう信じて、当たり前のことだと思っていた。でも、違う。
 これは、なんというのだろう。
『この人と一緒にずっといたい。二人で一つ。そう思う相手だったから、結婚を決めたの』
 菊姉さんの言葉がふいに浮かんだ。確か、あれは菊姉さんにどうして結婚するのかを訊いた時だ。菊姉さんは顔をほころばせ、頬を赤くして言っていた。
『まだお春ちゃんには分からないと思うけど、いつかそういう人が現れるわ。その人とずっと一緒にいたいと思ったら、それは恋』
 恋。その言葉が引っかかった。
「・・・・・・ずっと、一緒にいたいと思ったら、恋」
 一人で呟く。
 呟いた瞬間、どうしようもない気持ちが溢れ、頭に浮かぶのは善之助の顔だった。
「そっか、私はいつの間にか恋をしていたのね・・・・・・」
 全然気づかなかった。これが恋。善之助の笑顔がとても好きだと思っていたあの気持ちは愛おしい。胸がどきどきする。
 (ああ、どうしよう)
 先ほどの困りとは違って、心地よいとすら感じる困り。きっと、今鏡を見たら、顔が真っ赤になっているに違いない。
「善之助に会いたい」
 スッと立ち上がって、襖を開け、部屋から出る。草履を履くのを忘れてそのまま、家を出る。後ろから「お嬢さん!?」と一葉の声が聞こえたが、振り返らない。そのまま歩き続け、歩く速さがだんだん早くなり、気がついたらかけだしていた。
 (早く、早く善之助に会いたい)
 気持ちに焦りを感じつつ、足が砂で汚れ、体から汗が出るのを気にせず、走る。いつも通る道だが、今日はいつもと違って見えた。日が沈みつつあるせいか人が少なく、すれ違う人は不思議そうに私を見ていた。でも、気にしない。
 やっとのことで、善之助の家の前に来た。息を整えることなく、ドアをたたく。
 ドンドンドン。
 しばらくして、ガラリ、と開いたドアには貞吉が立っていた。
「お春さん!? ・・・・・・一体、どうなさったんで?」

雨のち晴れ(上)  byお春

​著 なみな


 貞吉はドアを開けるなり、驚いていた。それはそうだろう。いつもならこんな時間に訪ねることはない。何より裸足で息を切らしながら、訪ねてきたら私でなくても驚くだろう。 「あの・・・・・・さっちゃん、善之助いる?」
 私は貞吉の質問に答えることなく、逆に訊いた。貞吉は、どうしたら良いか迷っている様子で「おりますけど・・・・・・」と答えた。
「どうしたの、貞吉」
 善之助に会って話がしたい、そう言う前に貞吉の後ろから声が聞こえた。それはもう聞き慣れた声。顔を見なくても分かる。
ひょこっと貞吉の肩から覗くように顔を出したのは、善之助だった。
 善之助は、私を見て一瞬目を見開いたが、すぐ何か察したように「やあ、お春。こんな時間にどうしたの?」といつもの穏やかな様子で訊いてきた。
「・・・・・・善之助、あなたに会いたかった」
 真っ直ぐ善之助を見つめて、言った。
 善之助は、さらに驚いた顔をし、今度はそのまま固まってしまった。

 

「驚いたよ、こんな時間に尋ねてくるなんて」
 窓辺に二人で肩を並べて座っている。今日は三日月で、雲一つないそれはとてもはっきり見えて美しかった。
 善之助に話をしたいということを伝えると、まずは汗を拭くようにと貞吉が手ぬぐいを渡してくれた。そして、善之助の部屋へと案内され、今は貞吉が持ってきたお茶を飲んでいる。
「前にもこんなことあったよね。確か、あのときはお父上に叱られたときだったかな」
「・・・・・・」
 ははは、と昔のことを思い出して、善之助は笑っている。
「・・・・・・今日はどうしたの?」
 まず何から話そう、そう思いつつ湯飲みに視線を落とす。とにかく善之助に会いたかった。それは間違いない。でも、それと同時に話さなくてはいけないことがある。それを話すのが怖い。話してしまえば、どうなるか分かっているから。
 顔を上げて、善之助を見る。善之助は不思議そうに首を傾げるが、その様子も愛おしく感じた。どうしてもっと早く、この気持ちに気づけなかったのだろう。目の前がぼやける。
「お春? どうしたの?」
 唇をきゅっとつぐむ。
 本当は善之助に縋り付いて泣いてしまいたい。いつかのように大声で泣いて、善之助に励まして貰いたい。でも、今それをやってしまってはいけない。ちゃんと伝えなくては。泣いてはいけない。
「・・・・・・ぜん、ちゃん・・・・・・私ね、っ・・・・・・お嫁に・・・・・・行く、のっ・・・・・・」
 次から次へと涙がこぼれる。必死に両手でぬぐう。
 善之助が何か言おうと口を開きかけたが、その口を私の手でふさいだ。最後まで聞いてほしい。すぅっと息を吸う。
「・・・・・・善之助、私、あなたのことが好きよ」
 声が震えた。けど、はっきりと言うことが出来た。それを言った瞬間、一度堪えた涙がさらに溢れ、止まらなくなる。善之助の口をふさいでいた手を離し、顔を覆う。
「……っ……うぅ……うっ……」
 大声に出して泣いていないのに静かな部屋には泣き声が響いている気がした。
 ふわっと暖かいものが体を包んだと思ったら、ぎゅうっと締め付けられる。抱擁。
 何も言わず、善之助は抱きしめてくれた。思わず、私も抱きしめ返す。
 今までずっと一緒にいたが、善之助とは抱きしめ合ったのは幼い頃だけ。お互いが成長するにつれてそんなことすることはなくなった。一体、何年ぶりだろうか。そのまま長い時間過ごした。善之助は私が泣き止むのを待ってくれた。
「お春、私は君が嫁に行くことを喜べない。出来ることなら、君を結婚式から連れ去りたい」
 泣き止んだ私に善之助はそう言った。そんなことが出来ないのは分かっている。私の言えも善之助の家も大きい身分を持っていない。逆らえるわけがない。
 そんなことを思っていると、善之助は泣きそうな顔で笑って「けど」と続けた。
「私の命は長くはない。君を連れ去ることが出来たとしても、幸せに出来ないだろう」
 言葉がでなかった。耳を疑ってしまった。
 善之助が死ぬ……?
「そんな……そんなはず」
 そんなはずない、と否定しようとしたが、善之助に遮れてしまう。
「私は、体が弱い。それはお春もよく知っているだろう?」
「……っ」
 そう言われてしまえば、何も言えない。確かにそうだ。善之助は、生まれつき心の臓が弱く、体調を崩すことも多く、遊んでいる途中で発作を起こして倒れることもあった。ずっと一緒にいたのだから、善之助の寿命は長くないと知っていたはず。だけど、そんなこと考えたくなかった。
「大村清十郎という人は、悪い人ではないと思うよ」
「え……?」
 どうして、と善之助を見た。善之助は困り顔で「実は今朝、一葉さんが私の元へ尋ねてきたんだ」と言った。
「一葉が?」
「とても深刻な顔をして、君が大村清十郎という人と見合いをすることを伝えに来たんだ。本当はそんなこと伝えたくなかっただろうに。だけど、一葉さんは私に頭を下げて『お嬢さんのことをよろしくお願いします』と言って帰って行った」
 一葉は私より先にお父様から聞かされていたんだ。きっと一葉のことだ、私を想って真っ先に善之助に会いに来たのだろう。嫌いな善之助に頭を下げてまで、私のことを……。
 止まっていた涙が再びこぼれた。
「風の噂で聞く大村清十郎という人物は、賢く、不器用で、とても愛情深いと聞いた」
 (待って。どうしてそんな話を始めるの)
「人の噂というものは悪いものはすぐ広がるのに良いものはなかなか広がらない。ここまで噂が届くと言うことは、間違いないと私は思う」
 (待って)
 別れを告げられてしまうようで怖い。思わず善之助の袖を掴んだ。その掴んだ手を善之助が優しく包んでくれる。
「お春、君は必ず幸せになるだろう。だから、一つお願いがある」
 そう言って、善之助は立ち上がり、部屋の隅のから何かを取り出した。布に包まれたそれを持って、私の隣に戻ってくる。
 布を私に見えるように取ると、そこにはちりめん細工で作られた桜の簪だった。桃色の桜で、とてもかわいらしいものだった。
「これはね、うちの着物から作った桜なんだ」
「善之助が作ったの……?」
「うん。いつかお春がお嫁に行くときに渡そうと思っていた」
 この人は、最初から分かってたんだ。私が自分以外の人と嫁に行くのを分かってて――。
 それはとても悲しかった。最初から私との恋を諦めていたんだ……。
「……私と結婚しないとずっと思っていたの?」
 悲しくて、声が震える。
 そんなこと思いながら作った簪など、いらない。
 だが、善之助は「違うよ」と首を振った。
「いいかい? よく聞いておくれ。これは私の最初で最後の告白だ」
 真剣なまなざしで私を真っ直ぐ見る善之助は、今まで見たことがない顔をしていた。私は息をするのを忘れてしまいそうなる。
「お春。私はこの気持ちが恋なのだと気づいたと同時に、絶望をした。でも、お春を想うこの気持ちを諦めることは出来なかった。今までいろんなことを諦めてきたけど、これだけは諦めたくなかった。たとえ、君が他の人の元へ嫁に行くことになっても」
 だから、と簪を持って、善之助が私に近づく。思わず目をぎゅっと閉じてしまう。後ろの髪の毛に触れられた感触がし、気がつくと私の結った髪に簪を挿していた。
「どうかこの簪をずっと持っていてほしい。もし、私が生まれ変わったとき、君を真っ先に見つけるために」

「生まれ、変わった、ら……?」

「そう。次に生まれてくるときは必ず、丈夫な体に生まれてくる。だから、そのときにもう一度、私の告白を聞いてもらえないだろうか」

 嬉しくなった。先ほどまで悲しみで流していた涙が嬉しさで流れてくる。次から次へと涙が止まらない。

 この人は私との恋を諦めないでいてくれた。その気持ちでいっぱいになる。たとえ、今は離ればなれになったとしても、この簪を持っていれば来世できっとこの人に逢える。

 私は、返事をするために何度も頷いた。何でも頷いて、やっとの思いで「……うん……いつか善之助の告白を聞けることを信じてる」と答えた。

 それから二人で昔の話を始め、もし生まれ変わったら何をしようか、子供が出来たら何という名前にしようか、と時間が許す限り、語り合った。

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