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「あめふり月は、じめじめしているな」
「あめふり月?」
「この時期のことだ。よく雨が降る」
「ああ、梅雨のことですか」
「つゆは好きだ。特にうどんのつゆは、美味しい」
「……そうですか」
 溜息をついていると、黒いコウモリの羽がぴょこぴょこと嬉しそうに動く。きっと、美味しかったうどんのつゆの味を思い出しているのだろう。
 この死神の少女は、先ほどなにを話していたのか、すぐに忘れる。
 それなのに、遙か昔に恋をした男のことは、覚えている。
「あっ、祥太郎! あそこに青空が見えているぞ」
 ひょいと腰を浮かすと、少女は少しだけ宙を飛んだ。羽を動かしていないところを見ると、やはりそれはただのお飾りの羽のようだ。
 死神には、そういう種族がいるそうだ。人と動物の血が混じった、種族が。
「あああ、また雲に隠れてしまった」
 少女は残念そうに呟くと、元いた手すりに腰かけた。
 思わず、ふっと笑った。気付いて、慌てて口元を隠した。
「なんだ、祥太郎?」
「いえ、空を自由に飛べるなら、雲の上まで見にいけばいいのに、と思って」
 言うと、少女は紅い瞳を細めて、ぶすっと頬杖をついた。
「どうしたんです?」
「祥太郎から離れるのは、嫌だ」
 えっ、と声に出したのか分からない。なにを言われたのだろうと逡巡していると、答えにたどり着いた。
 顔が熱くなってくるのと同時に、変な、もやもやとした感情に包み込まれた。
『わたしは、善之助(ぜんのすけ)のそばから離れるのは、嫌だ』
 少女が、かつて好きだった男の前でも、同じことを言っていたことを祥太郎は知っている。目の前の少女と善之助の夢を見るようになったのはつい最近だが、その言葉の前後が分からないゆえ、どういった経緯で少女がその言葉を吐いたのか、そのあとに善之助はなんと答えたのか、祥太郎には知るよしもなかった。
「離れていくのは、ぜんちゃんのほうでしょう」
「え?」
「あなたは、怯えているんです。だから、もう二度と傷付かないように、僕のそばから、離れていく」
 かき消えそうな声でそう言うと、ぽた、ぽた、と雨粒が落ちてきた。

『ざーざー雨だ』
『はい? ああ、これは土砂降りですね』
『ざーざー雨は、嫌いだ』
『ぜんちゃん? えっ、泣いているんですか?』
『違う。これは、ざーざー雨のせいだ』
『まだそこまで降っていませんけど』

 少し前に話したことを思い出す。彼女がざーざーと降る雨を嫌っている理由は知っている。その日に大事な人を亡くしたことを知っている。
 それが善之助であることを、祥太郎は知っている。
 こんな顔を見られるくらいなら、ざーざー雨になればいいのに。
 思っていたら、突然ぐいっと顔を上げられた。呆然としていると、宝石のような紅い瞳と目が合った。顔が熱くなる。
「ぜんちゃ……」
「離れていったのは、祥太郎のくせに」
「えっ?」
「ざーざー雨が降っていた日のこと、忘れたとは言わせない」
 そんなことあっただろうか、とあの日のことを思い出す。

『ぜんちゃん、震えているんですか』
『震えていない。ざーざー雨の日は、寒いからだ』
『そんな格好、しているからですよ』
『うるさい』
 膝を抱えて、俯いて、震えている彼女を見ていられなくて。
 踵を返して屋上の入口に向かった。彼女が驚いたような声を上げる。
『祥太郎? どこへ行くのだ、祥太郎』
『雨、降っちゃいますから』
 少女を残して、祥太郎は屋内へと戻っていった。

「思い出したか、祥太郎」
「……はい」
 そういえば、そんなこともあったな、と思わず額に汗が浮かぶ。でもそのあと、一体どうしたっけ。
「えっと、あれはきっとぜんちゃんを置いて行ったのではなくて……」
「あのときはそうは思わなかった。なんだか無性に泣けてきてしまって、独りで、泣いた」
「その前から泣いていたで……なんでもないです」
 ぎろっと紅い瞳ににらまれ、返す言葉がなくなった。少女の両手は、相変わらず祥太郎の顔を持ち上げたまま。
 この状態でどうすればよいのかと途方に暮れていると、少女がいつものあどけない顔で笑った。
「なーんてな。祥太郎がそんな男なら、今もこうして一緒にはいない。さっさと仕事を終わらせて、二度と祥太郎の前になんて現れてやらない」
「あの、僕、なにしましたっけ……」
「覚えていないなら、これはわたしだけの秘密にする。カホーというやつだ」
「……家宝ですね」
「そうだ、カホー」
 はて、自分は家宝になるようなことをしたのだったか。

 あんなに冷たい男だとは思わなかった、と少女はなぜだか悔しさでいっぱいだった。どうせなら、このまま飛んで行ってしまおうか。ざーざー雨が降らない、雲の上へと。そして二度と、祥太郎の前には現れてやらない。二度とだ。
 そんなことを思いながら見上げていると、ピンクの物体が視界を遮った。
 なにごとかと、膝を抱えた体勢のまま、首だけ後ろに反らした。
 白いシャツ姿になった祥太郎が、息を切らしながらそこにいた。
『祥、太郎』
『ほら、もっとこっちに来ないと傘の意味がないでしょう。それと、これ』
 と、祥太郎は、先ほどまで着ていた学ランを、少女の露出している肩にかけた。
『祥太、郎』
『なんです』
『あったかい』
『そうですか』
 学ランを通して、祥太郎の温もりが、確かに伝わってきた。今度は嬉しさで、涙が出そうだった。
 花柄のピンクの傘をくるくると回して、そして、はたと気付く。
『祥太郎』
『なんです』
『もっとこっちに来ないと、祥太郎が濡れてしまうぞ』
『僕は、これでいいんです』
『駄目だ。祥太郎が濡れてしまうなら、わたしも傘は使わない』
『なに言って……』
『祥太郎、ほら』
 と、祥太郎が入れるようにスペースを作った。
 祥太郎は溜息をついて、おずおずと入ってくると、傘の中で座った。
 こういう状況をなんというのか気付いて、思わず笑みが浮かんだ。
『こういうの、わいわい傘っていうのだろう』
『わいわい傘じゃなくて、あいあい傘で……』
 なにか言いかけたので祥太郎の顔を見ると、顔が一瞬で真っ赤になって、そのまま俯いた。
『どうしたのだ、祥太郎?』
『なんでも、ないです』
『顔が赤いぞ。熱でもあるのか?』
 と顔を寄せて額と額を触れ合わせると、びっくりしたように祥太郎が後ずさった。一人でなにをやっているのかと疑問符を浮かべていると、『そ、そうだ』と裏返った声で、がさごそとなにかを漁る。
『まだ温かいか分かりませんけど、お味噌汁も持ってきたので』
 水筒を取り出し、お味噌汁要りのコップを『はい』と手渡され、ごくっと飲んだ。美味しい。
『美味しい。これ、祥太郎が作ったのか?』
『言ったでしょう、ご飯とお弁当は、大体僕が作るんです』
『そうか。祥太郎の家族が、羨ましいな』
『今度、作ってきましょうか』
『えっ、いいのか?』
『いいですよ。何人分作ろうと同じですし』
『祥太郎』
『なんです』
『祥太郎は、優しいな』
『別に、優しくないですし』
 もごもごと言っていたはずなのに、やけに鮮明に聞こえたことに気付いて、ふと空を見上げた。雨が、止んでいた。
『思ったほど、ざーざー雨になりませんでしたね』
『……が、いたからだ』
『はい?』
『ふふ、なんでもなーい』
 首を傾げている祥太郎を見て、そうだ、と思った。
『祥太郎、ちょっと待っていろ』
 言い残して、晴れ上がった空を飛ぶ。校庭を横切って、この学校に来る途中、見かけた花を摘む。そして、祥太郎の元まで、再び舞い上がった。
『これをやる。今日のお礼だ』
『花?』
『そうだ』
『これを、僕に?』
『そうだ』
 言うと、祥太郎は花を受け取り、黙り込んだ。
『どうした、祥太郎?』
『……に、します』
『え?』
『家宝に、します』
『カホーとはなんだ』
『え、あ、宝物みたいなもんです』
『そうか』
 と、嬉しくて破顔した。

「祥太郎」
「……はい」
「祥太郎がわたしから離れたいと思うまで、わたしは祥太郎から離れない」
「えっ?」
「それだけは、約束する」
 ざーざー雨の日に、自分がなにをしたのか分からなかったが、少女がにこにこと、それは嬉しそうに言うものだから、きっと少女にとっていいことをしたのだろうと祥太郎は思うことにした。
「僕が、ぜんちゃんから離れたいなんて思うこと、あるわけないじゃないですか」
「そうか」
 なおも笑みを浮かべている様子から、彼女は未来を見通しているのだと分かった。自分よりも遙かに長生きで、たくさんのできごとをその紅い双眸に見てきたのだから。
「離れませんから」
「ん?」
「離れなくても済む方法を、きっと見付けてみせます」
 少女は少し驚いたように瞠目させると、先ほどとは違う、心からの笑みを浮かべた。
「祥太郎」
「なんです」
「お腹が減った」
 この死神の少女は、先ほどなにを話していたのか、すぐに忘れる。
 祥太郎は、苦笑を浮かべてお弁当を差し出した。
「たこさんウインナー」
「入ってますよ」
「やったー!」
 目の前の少女の存在が周りの者にも見えるなら、一緒にお弁当を食べるところなのだが。
 あきらめて、美味しそうにお弁当を食べる少女のそばで、読書を始めた。どこまで読んだのだったか、と栞を取ると。
「ひょうたろう、しょれはなんだ?」
「食べながら喋らないでください」
「それはなんだ?」
「栞ですよ。どこを読んだのか分からなくなるので」
「花がある」
「押し花です」
「作ったのか?」
「ええ」
「祥太郎は器用だな」
 と、また食べる作業に没頭する。祥太郎も読書に戻ろうとしたが、そのとき再び少女が顔を上げた。
「ひょういえば」
「食べながら喋らない」
「そういえば」
「なんですか」
「善之助も似たようなものを持っていたぞ。押し花帳といって、大切そうにしていた」
「ぜんちゃん」
「なんだ」
「たこさんウインナー、おあずけです」
「なぜだ!?」
「今度から、たこさんじゃなくて、ただのウインナーにしますから」
「なにを怒っているのだ。そんなに大切なものなのか」
「ええ」
「ただの押し花が?」
「ただの押し花じゃありません」
「じゃあ、なんだ?」
 問われて少し考えて、ちょっと恥ずかしくなって。
 けれど、話していたことをすぐ忘れる彼女のことだから、これは覚えていないだろうと、思わず笑みを浮かべてしまいながら、断言した。
「家宝です」

あめふり月の屋上で   by祥太郎&ベティ

​著 おうめ
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