さらりとした長い金髪が、ベッドに広がっている。
震える長いまつ毛。
ゆっくり開かれる、宝石のような青い瞳。
目覚めた彼女が取る行動は、いつも同じだった。あ、今日も生きてる、というように瞬きをすると、窓の外を見て、そっと微笑む。筋肉が強張っているのか、ゆっくりとした動作で起き上がると、ベッドの上を整え、白いドレスのような寝間着姿のまま、窓辺で頬杖をつく。
そしてまた、そっと笑うのだ。
日の光に当たって、彼女の青い目がきらきらと輝いている。その瞳には、彼女よりも薄い青を映している。
彼女は何時間でも空を見ていた。自分ならとっくに飽きてしまうような長い時間、彼女は窓辺から離れることなく、ずっと、ずうっと空を見つめていた。
彼女を見付けてから三日ほど経っただろうか。
あるとき、いつものように彼女を見ていると、突然はっと驚くような顔をした。なにに驚いているのかと自分の真後ろを見てみたが、なにもない。また彼女に視線を戻すと、驚きつつも、そこには楽しそうな、嬉しそうな笑みが浮かびつつあった。
彼女の細く白い手が、窓を開けた。
「チャオ」
想像していたとおりの、彼女にぴったりの可憐な声だった。
視線は自分に向いている。だから自分も、「チャオ」と挨拶を返した。
「どうやって、そんなに高いところに上ったの?」と、自分が座る大きな木を見ながら彼女が言った。
「飛んで」と言ったら、彼女ははしゃぐように「あなたは妖精? それとも天使?」と瞳を輝かせた。
死神、と答えようとしたところで、彼女がはっと後ろを振り返った。同時に窓を閉める。
彼女の父親だった。父親は窓の前から動かない娘の手を引き、肩を抱き、ベッドに座らせる。腑に落ちない彼女の横顔が、ここからでも確認することができる。
父親は最後に、彼女の両頬を包み込んで別れのキスをすると、部屋から出て行った。
不機嫌そうな彼女の両肩が上下した。溜息をついたのだろう。その瞬間、思い出したようにこちらを見ると、悲しそうに顔を歪めて、胸の辺りでそっと手を振った。
雪崩れ込むようにメイドたちが入ってきて、彼女をベッドに寝かせる。もう一人のメイドが、窓のカーテンを、そっと閉めた。
彼女の姿は、見えなくなった。
さらりとした長い金髪が、ベッドに広がっている。
震える長いまつ毛。
ゆっくり開かれる、宝石のような青い瞳。
目覚めた彼女が取る行動は、今日だけ少し違った。あ、今日も生きてる、というように瞬きをすると、はっとするように顔が窓に向けられた。木の枝に座るこちらの姿を見て、彼女はゆっくりだけども慌てたように駆け寄ってきた。窓を開ける。
「チャオ!」
その勢いに驚きつつ、「チャオ」と返した。
「よかった。まだいてくれたのね」
安堵したような声だった。自分は四日も前から彼女のことを見ていたが、彼女が自分のことを知ったのは、つい昨日のことだ。もう、帰ってしまったと思ったのだろう。
その日一日で、彼女のいろんな話を聞くことができた。彼女とのお喋りは楽しかった。
自分の正体について尋ねたのは、あの日だけだった。訊いたら、それこそ目の前で自分が姿を消すと思ったに違いない。
彼女を見付けた五日目の朝は、少しだけ自分のことを尋ねてきた。
「あなたは本当に、飛ぶことができるの?」
不思議そうに問われたので、実際に窓辺まで飛んでみせると、彼女は感嘆の声を上げた。
それから、わざわざ木の上に戻るのも面倒臭かったので、窓辺にちょこんと座って、彼女とのお喋りを続けた。
近くで見れば見るほど、彼女は人形のようだと思った。年齢を重ねるごとに濃い色へと変わっていく金髪は産まれたときのままだったし、二つの青い瞳は、片方だけ紫がかって見えた。もともと、色の白い子だった。
「いいな。あなたみたいに、飛べたらいいのに」
言いながら空を眺める彼女の横顔を見て、彼女ごと空を飛んでしまおうかと思った。さすがに、そんなことをしたら叱られてしまうのだが。
「そんなに空が好きなのか?」
「うん。ずっと、ずうっと、鳥になりたいと思っているの。風に乗りながら飛んだり、友達に会いに行ったり。それに、鳥になったら、空がもっと近くなる。それほど、空が大好き」
だってね、と彼女が続ける。
「お父さまが言うの。この部屋から出てはいけない、横になって休んでいなくちゃいけないよって」
「なぜだ?」
「病気だから。ずっと起きてるとさすがに疲れてしまうけど、なにもない天井を見ているより、ずっといい。雲は動くもの。太陽や、青空を隠したり、雨を降らせたり」
「飽きないのか?」
「飽きない。『彼ら』の表情を見てると、なかなか楽しいわよ」
そのとき、ぽつりぽつりと小さな雨が降り出した。
「今日は、ちょっと悲しいことでもあったのかな」と彼女が言うので、「そうだな」と頷いた。
掌を上に向けて、雫を受け止める。ぴちょん、ぴちょんと可愛い音を立てる。
「雨は好き?」
「大好きだ」
「そうなの? わたしもよ」
「ざーざーと雨が降っている日に遊んでいたら、びしょ濡れになってお母さまに怒られた」
大きな声で笑いながら、「わたしと同じね。わたしも小さな頃、同じことをしてお父さまたちに叱られたわ」と彼女が言った。
「こういう雨も好きだけど、ざーざー雨が一番好き」
「ざーざー雨?」
「そう。ざーざーと降る雨のことを『ざーざー雨』って言うのよ」
「そうなのか?」と、空を見ながら「ざーざー雨」と呟いた。
「なーんて。わたしが勝手に作った言葉なのよ。……あれ? ねえ、聞いてる?」
六日目の朝、彼女は起きてこなかった。昼を少しすぎてから、彼女は起き上がって、窓を開けた。
自分の姿を見付けて、「チャオ」と挨拶する。
「チャオ。大丈夫か?」
目の下には隈ができていた。昨日よりも、赤味のなくなった顔。血の気がどこかに行ってしまったように、彼女の顔は青白かった。
「大丈夫。……本当は起きていたんだけど、ちょっと起き上がれなくて」
「横になっていたほうがいいんじゃないか?」
「ううん。お喋りしてるほうが楽しいもの」
それから二十分ほど、彼女は話すことすら気力が要るようで、ぼうっと空を見ていた。心なしか、彼女の両の瞳も、いつもの青色よりもくすんで見えた。
「……ら」
唐突に、彼女が口を開いた。眠気に襲われているかのように、ゆっくりとした口調で。
「わたしが、死んだら。悲しんでくれる人は、いるのかな」
彼女はゆっくりと大きな溜息をついた。
「あの頃遊んだ友達は、わたしのことを、覚えているのかな。わたしは、覚えてる。でも、顔が思い出せないの。だから、あの子たちもきっと」
わたしのことを、覚えてない。
「ひとりぼっちでも、構わないのに。天井を見ていると、泣きたくなってしまうの」
消えていくような声だった。
彼女は両腕を窓辺に置いて、その上に頭をもたせかけて、どんよりと曇った空を見ながら、眠そうに、そっと目を閉じた。
「……空を、飛びたい」
七日目の朝、彼女はベッドで眠っていた。
昼になっても、眠っていた。
空は、彼女と出会ってから一番の晴天だった。庭の色とりどりの花が、日に輝いて、さらに色付いて見えた。
カーテンは開かれていて、彼女が眠っている姿を見ることができた。彼女は、静かな寝息を立てていた。
昼もだいぶすぎてから、メイドたちが慌ただしく動き出した。見ると、彼女が苦しそうに喘いでいる。
まず医者が。そのあとに仕事から戻ってきたのか、正装のまま父親が入ってくる。
いてもたってもいられず、木の上から離れて、窓辺に近付いた。
中をよく見ようと、窓に手をついた瞬間、稲妻に撃たれたかのように、背中がびりびりと痺れた。彼女の苦しむ姿を見る。
なにをしなくてはいけないのか、分かってしまった。
死神は、魂を狩り取るべき人間の死の瞬間まで、どれが標的か分からない。
いや、彼女が自分の姿を視認した瞬間に、薄々気付いていたのかもしれない。死が近い人間は、普通の人間には見えない死神の姿を、見てしまうことがあるから。
彼女は、荒い息を吐いている。それはあまりにも苦しそうで。
気付けば、閉じた窓をすり抜けて、彼女の部屋に入っていた。父親の悲鳴にも似た声が、彼女を呼んでいる。父親は彼女の青白い手を握りしめ、彼女も父親の手を握っていた。
部屋の中は彼女の荒い息遣いと、父親の悲鳴、メイドたちの慌ただしい足音で溢れているのに、似つかわしくない小鳥たちの声がときおり部屋の中まで聞こえる。
すると、彼女の息遣いが、だんだんと穏やかなものになっていく。両手に握った鎌が、彼女の肉体と魂を切り離したからだ。
ベッドの中の彼女は静かに起き上がって、鳥の声に吸い寄せられるように、窓辺に近付いていく。
「飛べるよ」と言ったら、彼女の顔がゆっくりとこちらを見て、嬉しそうに破顔した。
彼女が、飛んでいく。窓をすり抜けて、近寄ってきた鳥たちと戯れながら、飛んでいく。
長い金の髪をたなびかせ、透き通った青の瞳を輝かせ、両腕を広げて笑っている。
彼女は、昇っていく。そのさなか、こちらを振り返って「ありがとう」と笑った。
部屋の中を振り返ると、彼女の抜け殻も、幸せそうに笑っていた。
昇って行った彼女と、彼女の抜け殻との間に、流れ星が通ったあとのように、きらきらと輝く光の筋が残っていた。
「祥太郎、あれはなんだ?」
指差した方角を見つめると、祥太郎が「ああ」と声を上げた。
「飛行機雲ですね」
「ひこうき雲?」
「飛行機が通ったあとに、白い筋のような雲ができあがるんです」
へえ、と祥太郎に感心しながらぼうっとその筋を見つめていると、ふと昔の記憶が蘇った。
確か、あの子も。
黙った自分のことが気になったのか、祥太郎が「どうしました?」と少し不安気に訊いてくる。
「いや」と答えながら、少しだけ笑みを浮かべた。
「……ひこうき雲か」
「ぜんちゃん?」
「なんでもなーい」
不思議そうな祥太郎を尻目に、飛行機雲をずっと、ずうっと眺めていた。
心の中で、彼女にそっと問いかけた。
――空は、気持ちがいいだろう?